2月28日 (火)  2月が終わる・・時が早過ぎ。

不純ですが、1998年、植樹活動の始まり。
<可愛い子が一人来ると男は黙って3人来る>・・を実感した植樹活動の始まりです。

丹沢(我が家)と学校関係の繋がりは意外と多い。
調査や卒論で入って来る学生は、大学と言うより研究室や個々の領域で学校との付き合いではない。
その点、時間と中身の濃さから言えば鎌倉の栄光学園はダントツだ。
そんな学校とのお付き合いの中で伊勢原の三ノ宮に「恵泉女学園短期大学」(後の園芸短期大学、2014年頃に閉校)がありました。

学校とのお付き合いは私の父が「恵泉女学園」で講演したことが切っ掛けだったと記憶しています。
ただし、その後の記憶は定かじゃありません。
同年代の男性が羨む女子大との付き合いなのに、いつ頃から親しくなったか(ハテ?)と思う程に知らないうちに親しくなりました。
全寮制の女子大ですから、もちろん男子禁制。

閉鎖になって久しいのですが、年末に九州の卒業生から「建物の売却が決まったようだ・・淋しいよ」とメールがありました。
今なら閉校になっていても建物はあります。
私が厚木や七沢などに出掛ける時は必ず通る道沿いです。
事務所には人が居て、門はいつも半分開いているので、写真を撮って送ってあげよう。

ただし不審者扱いされると困るので、門から入った正面玄関だけ撮影。
その昔、お茶を頂いた「男子禁制」の建物までは行けませんでした。
職員でもないし、もちろん卒業生じゃないけど(当たり前です)寮の建て替え時では寄付をさせられました。
でも、郵便配達や宅配でも窓口までの男子禁制の女子寮に、コンビニの少ない時代、都内や横浜からの帰り道、お茶やトイレにお世話になりました。

男の先生から「僕たちも遠慮する場所へ、なんで中村さんは自由に入れるの」と言われたこともありました。
でも、最初から入れたので、理由は解りません。
クルマで正門や実習棟の前を通ると、気付いた女の子が飛び出て来て「いってらっしゃ〜い!」と手を振られた事も度々です。

そうそう、もっと遡って恵泉という学校を知らなかった頃。
東名に秦野ICがない頃です。
もちろんナビもなかった時代、東名を厚木ICで降りて246号を避けての抜け道。
真っ暗闇の路上でいきなりライトの中に路上に座った女の子たち。

驚いて停まったら「オジさん、花買って〜」とクルマに近づいて来ました。
暗がりでも見れば可愛い娘たちが3人。
ただ、着ている服は泥の付いた作業着、履物は白い長靴。

女の子たちは交互に「このお花、私達が育てたの・・でも、そろそろ植え替えなの。」
「全部、捨てられちゃうの・・ネッ!かわいそうでしょ。」
「だからオジサン、一本でもいいから買って〜・・買って飾って〜」・・と言われました。

値段を聞けば輪ゴムで止めた一束、「100円、50円、30円でもいい」・・と。
まとめ買いしたのは言うまでもありません。
まるで夢を見ているようだった。

恵泉の方々とお付き合いするようになり、その話をすると、「その頃なら・・あの子たちね」と数年前の卒業生を覚えていました。

新たな花を育てるため、それまで育てた花は役目を終え捨てられます。
それを見て泣く子もいると言います。
「花売り」をしていた子達が、その子たちと納得しました。
もちろん気持ちを抑えて割り切って作業する子も多勢います。
先生は「どちらがどちらを責めることはない・・考え方や行動は、どちらも大切・・」と仰いました。

剣スコップや鍬を振り回し、一輪者を自在に操り。お揃いの作業着に長靴姿は、女子大と知るまでは「女子感化院」か?と思っていました。

その後、家内が学園に我が家のアルバイトを頼んだり、先生からは「寮には遠くから来ている子達も居て頻繁に帰省も出来ない・・どこか連れて行って欲しい」と頼まれた事もあります。
ならば、まとめて・・と、マイクロバスで丹沢登山に連れて行ったりしました。

今では定着した丹沢自然保護協会イベントの「植樹活動」。
開始当初、恵泉女学園から学生が大挙参加しました。
その後の活動に男の子が増えたのは言うまでもありません。
その時の学生達が子を持つ親となり、会員として今でも協会活動を支えています。

これを書いている時に、<伊勢原キャンパス:〜花一輪>最後の一日・・の案内状が届きました。

同窓のお別れ会になれば集まる方々は、おばあさん、おばさん、女の人、女の子。
いくら当時は出入り自由でも、正真正銘まったくの部外者。
さて、どうしたものかと思案中。

写真を探したものの見つからず。
見つかり次第、掲載・・いつになるやら。