丹沢ホーム設立
昭和22年(1947年)丹沢ホーム設立

後:昭和38年厚生省所管「国立公園協会」より国民宿舎指定
丹沢ホーム創設者中村芳男は、昭和5年〜、当時、日本統治の台湾で水産講習所に籍を置き漁場開発に携わる。

そこで植民地統治に疑問を持ち始めたことで講習所の校長から官憲の追及を心配され日本への帰国を促された。(中村芳男著・丹沢山暮らし「どうぶつ社」に詳細)
写真は南方での叔父と友人

当時の日本は他国と協調せず、国力を顧みない軍拡の道を進み、植民地支配を広げ、戦争の時代を選択した。
若者は意思を殺し、銃を取ることを教えられた。軍艦に勢ぞろいした若者は二十歳前後、自らの人生を歩んだ人間はこの後、何人いたのだろうか。(中村芳男のアルバムより)

中村は台湾から帰国後にキリスト教に入信、昭和18年、山本登喜子と結婚。

昭和20年、日本は米国との戦争に敗れる。戦争で最も大きな犠牲を強いられたのは、市井の人々、中でも子供や女性など無力な人達でした。
日本は敗戦で、世の中は今日食べるものもない時代でした。東京渋谷教会の牧師だった中村芳男は、戦災孤児や、外地からの引揚者、あるいは戦場から復員し自暴自棄になっている人達と共に茨城県で生活を始めました。しかし、頼った人に裏切られ財産のすべてを失いました。
渋谷の実家に戻りましたが、行き場のない人たちの安らぎの場所にはなりません。様々な人の繋がりや寄せられた好意から、この丹沢で生活を始める事が出来ました。

経験のない林業や炭焼き、誰と誰が家族か解らないような雑居生活でした。
でも、大勢が住める家があることは幸せでした。
丹沢の生活を続けながら、秦野市内に教会を建てました。また、秦野市で初めての保育園を併設しました。土地は市内の方のご厚意、建物は市内の建築会社の方が無償と言える経費で建ててくださいました。
写真は教会落成当時。 園生と保護者の写真は昭和31年8月25日と記されている。

こうして山の中の生活と秦野の教会との二重生活が始まりました。

玄関はいつも開かれたまま、鍵は掛けません。
丹沢ホームと言う名称は、いつでも誰でも訪ねることが出来る・・そう言う意味で名付けられ、今に続いています。
昭和25年、当時は占領軍の統制品であったトラックを購入しました。
それまで肩で担いで運んでいた薪や炭を、丹沢の山中から大量に搬出できるようになりました。肩で担ぐことの出来なかった材木も搬出できるようになりました。
しかし、戦争で国は荒れ果て、戦後は都市の復旧が優先されます。
トラックを購入しても山の中の道路は自力で整備が必要でした。

橋がなければ水量の少ないときに川を渡ります。タイヤのゴム質が悪く、よくパンクします。当時の日本は程度の差こそあれ、国民の多くが貧乏な生活でした。
それでも戦後7年、みんなに笑顔が戻ってきました。
|
|