10月14日 (土)  しばらく休んでいた「きまぐれ日記」の再開。

政治不信、政治鬱になった気持ちを切り替え、私の周りの「丹沢紹介」。
始めは「ヤビツ峠」編第一回。

最近は自転車で全国的に有名になった感のヤビツ峠。
先月、同志社の自転車部が来た。
「わざわざ京都から来るトコか」と言うと、「一度は来て見なきゃ」。
ヤビツ峠・・そんなに有名なんだ。

昔から関東岳人には、丹沢の登山口として知られた存在。
東京オリンピック以降、日本経済の成長と共に、海へ山へと人が繰り出し、東京横浜に近い丹沢は、週一休みの都会のサラリーマンには格好のレク場所になった。
丹沢が国定公園に指定され、登山者が飛躍的に増加。
渋沢駅から丹沢へ登る大倉口とヤビツ峠にバスが運行するようになった。
国民には自家用車が高「値」の花の時代、大倉は人も住み集落を形成していたが、バスの本数はヤビツ峠の方が多かった。
いかに登山者が多い時代だったか想像が出来ると思います。

さて、このヤビツ峠。正確には(古くは)「矢櫃峠」と言います。
その説明をする前に、周辺には「門戸口」「陣賀」「千人隠」などの地名もあります。
ヤビツ峠は甲斐の武田と小田原北条の最前線でした。
門戸口は簡易な関所。陣賀は勝ち戦の時に宴を模様する場所。
そう考えると「矢櫃峠」の地名は納得ですよね。
「千人隠」は海を熱望する甲斐武田のゲリラが潜んでいた場所。
しかし、千人も居たら、武器や食料の調達が出来ません。
推測するに、「三人」が言い伝えとして「千人」になったのでしょう。
三人、三人、三人と十回くらい言うと、いつの間にか千人になっちゃう。
まあ、言い伝えなどはその程度。

丹沢の麓の秦野市は当時、波田野と呼ばれ(こんな字だったか)、北条の出城(多分、名前だけの城)がありました。

武田のゲリラは田植え時、あるいは稲刈り時に波田野に出没しては攪乱戦法を取っていたのでしょう。
怪しまれずに集落へ入るのですから、もちろん手ぶら。
そこで火を点けたりして逃げ帰る時に、どこかで追っ手を防がなければいけません。
そうです、そこがヤビツ峠でした。
峠まで逃げ帰ったゲリラは隠してある櫃から矢を取出し。
迫る追っ手を峠の上から射ったのです。
現在のヤビツ峠から西へ直線で200mほどのところに旧ヤビツ峠があります。
いまのヤビツ峠は道路が開設されて、名前だけ引っ越したものです。
ちなみにヤビツ峠には「餓鬼」の話もあります。
そこは、また何時の日か・・。
ヤビツ峠の名前の由来、矢櫃峠。
ではまた。

写真は昭和27年頃のヤビツ峠第一暗渠を走る我が家の材木満載、その上に、ついでに人間が二人の5tトラック。当時は5tで超大型。

ヤビツ峠千人隠付近からの秦野市と小田原市。
あの海、欲しかったろうな・・武田信玄。
自分のものだけにしないで仲良くすりゃあよかったのにね。

今の時代、自転車乗りたいだけで、京都からヤビツ峠へ日帰り。いい時代だ。

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